昭和四十五年四月十日 


X御理解第五十八節  「人が盗人ぢやと云うても、乞食ぢやと云うても、腹を立ててはならぬ。盗人をして居らねばよし。乞食ぢやと云うても。貰ひに行かねば、乞食ではなし。神がよく覧て居る。シッカリ信心の帯をせよ。」


 味あわせて頂いても、頂いても、尽きぬ真味と、信心の味わいは、ここにあるなと思われるような御理解だと思います。皆さん信心の味わいとゆうのは、どうゆう事なのだろうかと。

 なる程、お参りをさせて頂き、御教を聴聞する。心ゆく迄、御祈念をさせてもらう、あの御祈念の雰囲気がたまらん、なる程、どれもこれもやはり真味であります。信心の味です。信心させて頂くのも、修行させて頂くのも、朝参りもさせて頂かなければ、味わえない味わいですよねぇ。

 けれども、本当の信心の味わいとゆうのは、例えばお互いの日常生活、様々な難しい問題、実にデリケートな人間関係、そのような例えば問題とか関係の中にあってです。その中に信心頂いておるおかげでと、私は信心の教えが生活の中に生き生きとしてくるとゆう事。私は真味と云うならね、それが真味だと思うね。本当の味わい。

 私はお道の信心はね、そこんところに信心の味わいを感じさせてもらえれるおかげを頂かなければね、本当云うたら、信心の値打ちはないと思う。

 お参りをさせて頂く御教を聴聞する。たまらない、あの御祈念の雰囲気、なる程、どれも、これも捨てがたい、いや捨てがたいどころか、まあ大変大事な事なんだ。

 皆さん今、私が申しました事はどうでしょうか。お参りをさせて頂く味わいもまだ分かってない人が有るかもしれません、しろしい、しろしいと云うて参って来とる人が有るかもしれません。一生懸命日参りさせて頂きながらも、まあだ自分で御祈念の味わいを知らない人が有ります。もうそれこそ、心ゆくまで御祈念させて頂いておったら、もう限りがない、いわゆる深あるい真味を感じる事が出来ない。

 もう信心の味わいは拝むとゆう事、一心不乱に拝むとゆう事、例えば皆さんがおうちで夜の御祈念をあれを済まし、これを済まして頂いて今日一日の事を思わせて頂いて、あれもおかげであった、これもおかげであったと、あそこはお粗末御無礼な事であったなと、気付かせて頂いて、お礼を申し上げても、申し上げてもお詫びをさせて頂いても、頂いても尽きぬ程の私は、御祈念が出来るなら、御祈念だけでも味わいとゆうものが出来てくる。そこから翻然としたものがね開けてくるんですよ。御祈念てそんなに有り難いのです。ですから、御祈念を抜きにしては、やはり信心は有りません。だから、その中にはね味わい。

 同時に手足を運ぶと申しますか、お道の信心は、まず何と云うても朝参りからと云われる位ですから、その朝参りの味わいが何とも云えんとゆう味わい。同時に、お参りをする有り難さ、拝ませて頂く有り難き、その後に頂く御教の又有り難さ。

 だから、どれだってですね。やはり、味あわなければならないもの。

 ですから、皆さん自問自答してみてです。はたして、そうゆう味わいをお互いが味わいぬいておるかどうかをね。ひとつ検討して、もうそこに味わいを感じていないなら、そこに味わいの出るところ迄、お互い本気で信心修行しなければいけません。

 けれども、私が今日皆さんに聞いて頂きたいのは、真味とゆうもの、本当の信心の味わい、とゆうものはです。私共日常生活の中にあって、様々な問題に直面する時、様々なデリケートな人間関係の中にある時、お互いが云わば御用の現場にある時です。信心頂いておるおかげでと、それを私は感じさせてもらえる味わいが信心の真味の第1だと、私は思いますねぇ。お道の信心させて頂く者の第1の味わいは、それだと思う。

 お百姓をされる方が鍬を持つ手に、それこそ、しみじみと、天地の大恩をかみしめて、御用させて頂いておられると致しますが、それこそひと鍬ひと鍬神さま有り難うございます、金光さま有り難うございますと、それこそ思わずこぼすひとしずくと、歌の文句じゃないですけれども、そのような味わいが私は本当の意味での真味だと思う。

 あー、あ今日は、こら又鍬を握らにやならん、又泥を扱わなきゃならない、といったようなものでもなくてね。その御用の中にです。しみじみと涙がこぼれる程の味わいを感じえられるとゆうところにね、私はお道の信心があると思うのです。

 盗人じゃと云われても、乞食じゃと云われても腹を立てなと、ここんところが私は一番味わせて頂くところだと思うのです。腹を立ててはならんぞと、こうおっしゃっておられる。その腹を立ててはならんと、ここんところが私は一番味あわせて頂くところだと思うのです。腹を立ててはならんぞ、とこうおっしゃっておられる。その腹を立てんで済むとゆう事なんですよ。味わいとゆう事は、いや腹を立てんどころか、その事とです。その事を、ひとつ合体すると云うかね。その事と一緒になって、心からお礼を申し上げる心が湧いてくるとゆう事なんです。先の事は人は知らん。私共、先の事を信じて日々、信心の稽古をさせて頂いておる。おかげになる、助かられる、と例えばそれを信じて、信心の稽古をさせて頂いておる。それこそ、俺がいつ泥棒をしたか、俺がいつ乞食したか、と云うてですねぇ。腹を立ててはならんと、こうおっしゃる。立てんで済むおかげが頂けるだけではなくて、そこにね、味わいを感じさせてもらう。

 昨日、秋永先生のとこのおばあちゃんの一年の成年祭がございました。ここからも皆さんたくさんおかげを頂かれましたが、昨日はもう初めて秋永先生の所でのお祭りにあれ程しの親戚の方が集まっておられたのは初めてであった。おばあちゃんのお徳だなと思いました。

 やっぱり、一年祭位ですと、丁度一年前を思い出して、悲しゆうなるとゆうのが普通ですけれども、悲しゆうなるとゆう雰囲気じゃないのです。もう本当にそれこそ、謝恩祭でも司えておるような気持ちなんです。只有り難い、有り難いとゆう、おばあちゃんが喜んでおられるじゃろうと思われるような雰囲気なんです。いやおそらく、これは三年祭、五年祭と、年を経ていくに従って、いよいよこのお祭りは、それこそお祭りのようになっていくだろうと、ゆう事なんです。秋永の家の信心の元をとって下さった、おばあちゃんです。

 そのような中に、私は奉仕をさせて頂きましたが、丁度参りましたら、お茶を一服頂いて、お風呂を頂きました。お風呂の中で、私は本当にあの極楽を感じさせてもろうた。

 誰だって、お風呂に入ったら、ああ極楽とゆう気持ちになりますけれども、只極楽、極楽とゆう気持ちがですねぇ、もう少し深いと云うか有り難いと云うか、それはああた、親先生のように、一番風呂に入らして頂いて、そして繁雄さんがちゃあんと、ついてからもう、頭のてっぺんから足の先まで、洗うてやりなさるけん、それは誰だって有り難かくさい、と云うけれども、その有り難さとは又違った有り難さなのです。

 合掌して、お礼を申し上げておりましたら、『神・霊・人」と頂きました。神さまと、霊さまと、私とゆう者が、もう一体になって神さまのお働きと、私の信心のささやかな働きとが一つになって、このような有り難い雰囲気、極楽をかもしておるのである。

 これがどうでしょう。私が一人で儲け出して、私が一人で立派な温泉に入って、ああ極楽とゆうのとは大変駄々目が違うでしょうが、ああ極楽、極楽と云うのとは、違う。神さまが私の為に、霊さまが私の為にそれを受けて立たして頂く私の信心とがひとつになって、混然として、そこに有り難いものをかもしておる。今月の霊さまのお祭りはいよいよ、有り難いお祭りが出来るなと、思わせて頂きながらね。昨日、お祭りにのぞんだ事でございます。

 有り難い、いわゆる大調和とでも申しましょうか、霊さまと調和する、神さまと調和する。その心を私はここに頂いておるとゆう事なんだ。

 今朝も私いつものように、ここの控に出て参りました。必ず金光さまのお写真の前でお礼を申させて頂きます。けれども、今日はいつも火鉢の横にすぐ席を替えるのですけれども、立たれない思い、昨日から有り難さが続いているんです。

 金光さまのお写真を眺めさせて頂いておると、どこ迄深いか分からん程しの、金光さまのお姿、ありし日の金光さまの御神勤ぶりをずーっとこう思わせて頂いて、もう有り難い、有り難い外では少し、おしめりの風が出たようでありましたが、サーッ、サーッとゆうおしめりと風の声。雨だれの音。そして部屋にたきこめてある香のかおり。お写真の下には一輪、山椿がさしてある。

 もう見るもの聞くもの、もうとに角、只有り難い、有り難いもう、とうとう修行生の方があそこへ、ふすまをいつも開けて向かえに来て下さる時迄、金光さまのお写真の前から離れられなかった。有り難うして、信心の味わいはここに有るそう思わせて頂きました。

 そして、御祈念をさせて頂きまして、今日この五十八節を頂かしてもらうてです。この五十八節を今日程に有り難い、素晴らしい御理解だなあ、真味あふれる御理解だなあと感じた事は今日が初めて、もう何回、何十回、この五十八節は頂いた事でしょうけれどもです。第一私の心の中にです。例えば泥棒じゃと云われても乞食じゃと云われても、腹を立てんで済むとゆうおかげなんだ。 同時に一番最後の神がよく覧ておる、しっかり信心の帯びをせよと、おっしゃる。神さまが覧ておって下さるとゆう事なんだ。有り難いのは、どのような事であっても、神さまは覧ておって下さるんだと。

 そら、随分私共も泥棒じゃ、乞食じゃと云わんばかりの事を云われて参りました。それは又普通から云うたら本当に泥棒か乞食かも分かりません。もう、とに角合楽は他所の信者を横取りする。信者を平気で取る。大坪さんは仲々商売人だからお供えがさせ上手、もう正に信者泥棒だとゆう事になるでしょうし、なる程金光さまの先生は乞食根性が強いと言われるようになるかもしれませんよ。大坪さんは仲々、商売人だからお供えがさせ上手、いかにもお供えしなければおられないような風にまあ云うとゆう訳でしょう。

 なる程、ここでは他所で信心の稽古をしとった御信者さんがたくさんおります。けれどもね、それだからと云うてね、人情を使う気はさらさらなかったんです。今日迄、あんたはどこどこの教会でおかげ頂きよったつなら、それはね道を間違えちゃならん、ちゃんと自分の教育でおかげ頂きなさい、とそれはどこ迄も美しごと、問題はその救いを求めてきとる。助けを求めて来とる、その人が助からなければならない。それこそ助かる事さえ出来れば私や泥棒と云われてもいる。この人が助かる事であるならば、私はそうゆう布教方針と云うか。 なる程、お供えさせ上手かんもしれん、乞食根性が強いかもしれん、けれどもね。その事によって、その人が神さまとのつながりを、いよいよ濃いものにしてゆき、そこから、おかげのルートが開けてくるならばです。乞食じゃと云われても、やはりお供えしてもらうて、その人がおかげを受けてもらわなければならん、問題はその人が助かってもらわなければならんのだとゆう事。

 ですから、それこそ馬耳東風と云うですか、何と云われても、それが例えば聞こえて参りましても、腹の立つ段じゃない。有り難い。

 そうゆうところにですね。私の信心はやはり人情を欠くところが有りますねぇ、確かに‥‥‥。けれどもねぇ、人が助かるとゆう事は、もう殺してかからなければ出来ん人情じゃ人は助からん、そこに神情があると私は確信しとる。

 いかに人情を使うてあっちの先生は分かっちゃると、とゆう風に云われるよりもです。あちらは乞食のような奴じゃ、泥棒のような奴じゃ、と云われてもです。私は神情ひと筋に生き抜きたい、そしてそこに、一人でも二人でも、本当の助かる人がある事を私は願いとする。

 昨夜も丁度大祭の舞いの稽古がずっと、毎日久留米であっとりましたが、ゆうべは、ここであっておった。いわゆる舞いの先生がみえておられました。

 まあ、私の気分としてはです。日々御苦労様でございますと、又会うてお礼も云いたい。又、舞いの稽古をしとる。その舞いも新曲ですから、見た事もないし、一辺舞いも見てみたい楽の方も聞いてみたい、これが私の心情でした。 けれどもね、今日はその舞いの先生とは会うなと頂いた。そこに私はいつも人情から、云わば神情のひとつの過程と、ゆうのが有るのです。だから、御結界に出とったら今の田中先生と会うにやいけん。だから私は早うやすと、もうもうと云うてやすんだ。

 本当から云うたらおかしいでしょうが、わざわざ久留米から舞いの稽古に来て下さってあるんです。しかも、毎月今度は直子が舞いを習っています。ですから、舞人さん達が一生懸命、毎日久留米通いさせて頂いてお世話になっているんですから。教会長として私が会うてお礼を云うのは当たり前、これが人情なんだ。

 けれどもね、それは私はどうゆう事か、訳は分からん。私にも何故その舞いの先生と会うなと、神さまが云うて下さるのか私にも分からんけれどもです。それは神情なのだから。私はもう疲れた、早う寝ろう、寝ろうと云うてやすませて頂いたら、やすませて頂いておかなければいけない事が次に起こっておったとゆうように、私はいつもこの生き方なんです。

 ですから、これをそんなら第3者から見る時にです。本当に礼儀をわきまえないとか、本当に分からん奴だとゆう風に、云われるかもしれませんけれども、よし云われた時には、それを合掌して受けられるる。私の心の中にです。これがあるのです。

 それこそ、普通から云うなら腹を立てなければおれないような事でも、腹を立てなとおっしゃらんでも、腹を立てんで済むおかげ、私や、これでおかげ頂く、とだから、と思う。

 人が人非人と云や本当に、私や人非人だからこそ、人がおかげを頂くのだとゆう事。もう私や既に人間ではない、人非人なのだ。普通では、あれは畜生のような奴だと云う。私は畜生になれはてたいとは思わない。人より以上の人になりたいとゆう願い、これは皆んなも、その通りでなからなければならん。先日から頂きますように、生神金光大神とゆうのが、私共の願いの焦点なのですから。

 ですからねぇ、皆さん信心の味わいとゆうものがです。今月はいろいろに申しましたですよ。お参り、聴聞、御祈念なる程真味を感じます。しみじみと感じます。それこそ、峯から落つる滝の音、空にさえずる鳥の声、とゆうようにです。自然のそうしたひとつの自然がかなでるひとつのリズムと申しましょうか、そうゆうリズムにも、こちらがのってゆけれる。

 例えば今朝の私が感じさせて頂いた事がそれなんです。金光さまのお写真を拝ませて頂きながら、どこ迄深い御人相なさって、おられるのであろうか、と思う位。一輪のその榎椿の花にどれだけ、私の心の中がなごむことか、人には云わば雨風と思われるような、雨風の音を聞きながら、もう深い、深い天地が奏でるリズムの中に私の心がとけこんで、有り難い、有り難いもう立つ事も出来ません程に有り難い。

 どうでしょう、私の心にそうゆうものを、キャッチしえないそれと調和しえない、心がもしあったとしたら、どのようなよい春がたきこめてあっても、どのような素晴らしい花があっても、どのような素晴らしい自然のリズムがそこに聞こえておりましても、それを有り難いと聞きとる事は出来ないでしょう。そうゆう、云うならば自然の働き、その自然の働きが現実、私の眼の前に起きてきておる。それが、私共生活の中にある問題なのだ。云うなら、自然が奏でておる、それは雨風にも似たような事かもしれません。峯から落つる滝の音かもしれません。木の葉、木の葉をくぐっておるせせらぎの音かもしれません。それにいて、さかまく、どとうの、すさまじい迄の音かもしれません。

 けれども、その全てがです。私の心に調和するそれの全てを有り難いなあとして合掌して受ける。それは泥棒だと云われる事があるかもしれん。乞食だと云われる事があるかもしれん。けれども、それを合掌して先の事は分からん信心の薄者、信心の無い者では分からん境地がこちらの心の中にあるからなんだ。だから、その事が有り難いのだ。

 私はこの五十八節をね、今日はそのような有り難い思いで頂いております。最後の神がよく覧ておる。もうここにはね、もう本当に何もいらんとゆう気がします。いや、どんな事をいいと思います。どんな修行がそこにあってもいいと思います。神さまが覧ておって下さるのだから。

 もう三十年も前の事でした。秋永先生の所での共励会の時、もう一晩中眠らんでお話しをしておりました時分、一番電車が来る迄、ちょっと時間があるとゆうので、ちょっとやすませて頂いた。そしたら、私、ふっとこう眼がさめた。もう起らなならん時間だなあ、と眠ったばかりのところで眼がさめた。けれども、やはり眠いもんですけれども、又、とろとろと眠らせて頂いておったら、三代金光さまのお声で、「神さまが覧ておいででございます!」とゆう、もうそれこそ、鼓膜が破れるような大きい声で頂いた。神さまが覧ておいでございます、とおっしゃった。私がゆうべ休んでない事は、神さまが御承知です。眠ってない事は神さまが御承知なんだ。さあ、起きなさいとゆう訳なんです。神さまが覧ておいでとゆう事は神さまが修行として、受けておって下さるとゆう事なんですよ。眠いだろうけれども、起きなさい、と云うて下さった。

 もうそれこそ一辺で、はね起きさせて頂いて一番電車に間に合わせて頂いた事がございました。これは、もう、二十年も前の事、神さまが覧ておって頂くのですから、どのような血の涙が流れる程しの修行があっておっても有り難いのですよ。どうぞ、ひとつ今日のこの五十八節から乞食じゃと云われても、泥棒じゃと云われても腹を立ててはならん、とおっしやる立てんで済む、ひとつおかげを頂きたい。

 どのような事ともです。例えば、調和する心をひとつ頂きたい。

 いよいよ、和賀心を決めていきたい、いよいよ和賀心を高めてもいきたい。深めると云い、高めると云い、私はどのような事を云われてもです。腹を立てんで済む。いやむしろそこに有り難いと、思わして頂ける程しの心こそがです。私は和賀心をいよいよ高めていく。又は深めていく。信心させて頂いておる者の姿ではなかろうかとゆう風に思うのです。神さまが見ておって下さるのですから、こんな楽しい事はない、こんなに心強い事はない。そんなら、神さまがこげん辛い思いをさせなさらんでんよかろうもんと云うてもです。そんな訳にはいけん事ばっかりなのだ。実際はそうでしょうが。

 咲く迄は草と呼ばれる野菊かな

 今、ここで菊の花が咲いておればですよ。問題は、誰だってこれは菊の花と云いましょうけれども、さあ一辺に咲く訳には参りませんのですから、その過程に於いては雑草と同じに見られる事があるとゆう事です。俺がどこが雑草かようと、葉を見てみれ、根を見てみれ、と云うて赤面弁慶になって云う事いらん。咲くまでは草と呼ばれる野菊かな、と私はそうゆう風に思います。どうぞ。